メイン

ぐるり故郷歌巡りバックナンバー

2007年07月08日

夏ですね。お久しぶりです。

私は今から三年前の参議院選挙に出てから、しばらくインターネットから離れておりましたが今度久しぶりに復活しました。いろいろなお話や近況などをお伝えしていきますのでどうぞ宜しくお願い致します。
今日は7/8ですが梅雨空は相変わらずどんよりしています。今私の家の畑から茄子がとれ始めて大好きな茄子漬けが頂けるようになりました。特に砂漬けが好きなのです。毎年歯が黒く染まる位頂きます。ところで今年は何故か茄子などの野菜類にはアブラムシが多く見られますがどうも季節のせいばかりではないらしく化学肥料の使い過ぎが原因のようです。土壌が死にかかっているかもしれませんね。しかし例年沢山出るアメリカヒロシトリなどは今年はまだ発生が少ないようです。
さて夏と言えば何と言っても朝顔、実にいい雰囲気ですね。私は特にこの花の原種が大好きです。
■写真はその原種の朝顔です   %E3%81%82%E3%81%95%E3%81%8C%E3%81%8A1.jpg

2007年07月09日

六平「心の歌」配達 本日は塩尻市下小曽部の皆さんと大声で歌ってきました。

私は平成16年秋から音楽活動ソロとして復帰しました。同年暮れから全県500カ所を目標に福祉施設、病院、公民館、学校等に「おはなし音楽会」として「心の歌」の配達開始しました。「おはなし音楽会」は以前NHK長野局制作テレビ番組「お出でよプラザN・堀 六平の心の歌」(1998-2004年まで放送)としてスタジオから生放送していたものを拡大して届けています。平成19年4月までに220回を達成しました。その第238弾が塩尻市下小曽部のお爺さんやおばぁさんに歌を届けることでした。
今日は随分「むしむし」しましたね。私は汗だくでした。「里の秋」を歌っていたら95才のお婆ちゃんが泣き出しました。過ぎし昔を思い出したのでしょうか。でもしっかりとしたお婆ぁちゃんで最後まで一緒に歌っていました。総勢60人の在宅のお年寄りの皆さんが大声で懐かしい童謡唱歌を歌い、思い出話に花を咲かせました。さすがに童謡はよく知っておられて感服致しました。皆様お元気で。塩尻ではその他に野村、高出をはじめ6ヶ所ほど音楽会を開催しました。
さてこの塩尻、洗馬の地域は高原野菜の名産地でレタス栽培が盛んです。直ぐ西隣は朝日村、山形村、波田町と続きます。途中波田ではで西瓜を管理している人達に会いました。 ■写真は波田の西瓜畑です。
%E6%B3%A2%E7%94%B0%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AB%EF%BC%98%E7%AE%A1%E7%90%86.jpg

2007年07月12日

そば切り発祥の地、本山宿

今日は朝から雨模様だった。私は塩尻市、本山宿の老人会に「心の歌」を配達に出た。ここ本山宿は「そば切り」の発祥の地として知られた宿場町だ。皆さんと楽しい一時を過ごした。
さて「そば切り」の発祥に関しては塩尻市の本山宿の他に甲州天目山の棲雲寺(せいうんじ)が元祖であるとも言われている。蕎麦は今でこそダイエット食だがその昔はやせた土地にしがみつく貧しい人々の代名詞にもされていた。
信濃では天正2年(1574年)に木曽郡大桑村定勝寺の仏殿修理の祝いに「そば切り」が振る舞われたという古文書が見つかっているが、しかしこれより更にさかのぼること「続日本書紀」には722年に時の元正天皇から「不作に供えて蕎麦を作りなさい」という詔が発せられている。つまり奈良時代には既に蕎麦が栽培されていたのだ。彼の空海がうどんの製法を持ち帰ったのが806年というから日本の蕎麦文化も古いものだ。
さて蕎麦は口に含んだときの甘みと噛み具合で質感の善し悪しを見るのだが十分に熟した実から取る地粉で打った蕎麦はやはり甘い。そしてやはり「つけだれ」がいい女房役を果たしている。信州の食べ方の元祖は味噌と大根の汁を混合した「しぼりだれ」につけて食べたものだと言われている。
江戸初期の寛永13年に尾張藩徳川義直が日光東照宮落慶の折に中山道を下って木曽路の贄川宿でその様にして食べたという記録が残っていてそれ以前は定かではない。伊那に「高遠そば」という言葉が残っているがどうやらこの食べ方のことを言ったらしい。
現在も伊那にはこうして食べさせてくれるところがあるしその流れが福島県の会津あたりにもある。また坂城町や千曲市上山田、下伊那郡下条村あたりでも辛み大根をふんだんに使って「おしぼりうどん」「おしぼりそば」をおいしく食べさせてくれる。奈川村や開田村辺りでは「湯治そば」がうまい。只の湯湯治ではなく美味しいだし汁とスンキ漬けでいただけるのが嬉しい。そういえば佐渡の小木では魚のだし汁からあっさりとした「そば」を食べさせてくれる店があった。
さて蕎麦好きの私はやはり地粉で打ったものが一番好きだが絶対量が少なくてなかなか本物にお目にかかれない。私などは地元で沢山食べている為か本物の味を知っているつもりだが、旅の方々は意外と知らない様で「信州そば」「手打ちそば」などと大きく書かれた看板や古民家風の門構えにだまされてひどいものを食べさせられているケースがある。信州人としては大変申しわけないと思う。勿論その中には本物にも巡り会えることもあるが多くは中国産のそば粉など輸入物を使用して美味しくないものが多い。まあ、旅先で美味いと感じたらそれも味わい方ではあるが私にしてみるとやはり可哀想だ。
もっとも「そば切り」という表現に関する法律がいい加減なことも問題だ。例えばうどん粉8割、そば粉2割でも「そば」といってはばからないのが実態だから情けない。これはどう見てもそば粉入りのうどんだろう。旅人よ蕎麦もどきに決してだまされてはいけない。
怖いことは県外の観光客の方々からそんな偽物が、皆な信州蕎麦と思われてしまうことだ。信州そばの本物の味を知ってもらうどころか、県民性まで疑われてしまうのがつらい。よくよく地元の人々に聴いてみれば本物を正当な値段で食べさせてくれるところが幾らでもあるから当たってほしい。また地元の「そばやさん」もどうか本物を食べさせてあげて頂きたい。お話があれば微力ながら私も本物の「そば」の食べられるところに御案内したいと思う。

■写真は毎年秋に開催される開田の「蕎麦祭り」の風景
%E3%81%9D%E3%81%B0%EF%BC%91.JPG

2007年07月17日

七月の木曽の馬市別れ雨

ひとは私に腹が出てきて随分格好が悪いという。返す言葉もない、当たってるな。おまけにここのところ一週間ばかり夏風邪と血圧不安定で目は回るし体の節々が痛くひどい目にあった。メタボの同志よ、お互いに気を付けよう。
さて戦前(半世紀前)までは毎年7月には木曽福島に馬市が立ったという。私達には何か時代劇の様な気もするがこれは今から200年(江戸中期から後期)も以前から既に木曽福島で開かれていたのだ。確かに私のように木曽馬は胴長で短足だが山の上まで耕せる力の持ち主でたくましく優しい性質の馬だった。この優しい馬の中から当時の木曽代官山村氏が雌の良い馬を召し上げるために「毛ずけ改め」ということをした。早い話が品質検査をして合格すると有無も言わさずにそのまま召し上げてしまったのだ。一方代官の目から逃れた馬は自由に市にかかり売られていくのだがこの時に馬のたてがみを切って売買した。これが馬市の始めからのスタイルで、後世にたてがみを切った馬の人形が土産に売られる様になったがこの時の名残だと言われている。
さて当時の馬市にはどの位の数の馬が集まったか。記録によると一番多い時は2000頭を超えていた。家で飼われていた馬を考え合わせると木曽谷には3000頭は飼われていたと思われる。市場では木曽駒は馬の全国三大和種の一つにあげられている位人気がありよくうれた。記録によると木曽の人々は馬を家族同様にして飼っていたからお金の為とは言いながら売られた馬との別れがつらくて村の堺まで泣きながらついて行って別れを惜しんだという。これを「七月の梅雨は木曽馬市の別れ雨」といわれて後まで語り継がれてきた。当時の木曽馬は農業にも運送にも子供達の情操にも無くてはならぬ家族の様な存在で馬達もまた人々の心を知っていて一生懸命に尽くしてくれた。木曽谷の人々と馬は切っても切り離せなかったのだ。
歴史を見ると西暦530年代には既に飼育されていた記録がある。1180年に源氏の若武者木曽義仲が27才の挙兵の時にも、またその3年後の近江の粟津ケ原での最後の時まで側に何時もいたのも木曽馬だった。
ところで以前から開田村には馬名主(馬地主)といわれる豪農がいて沢山の馬を支配し全国に販売していた。多い時はこれも記録によると村の予算に匹敵する位の商いがあったと記録されている。時代は移り太平洋戦争の頃には足の長い外国の馬との掛け合わせが盛んに行われて純粋な木曽馬がほとんどいなくなった。この時に村の心ある人々が軍部に隠れて終戦になるまで何頭かを隠して育ててきた話を知る人は少ない。そしてこの人々のお陰で今日まで純粋な木曽馬を保存できたのだ。
現在開田村には30数頭の木曽馬の子孫が牧場で育てられていて来る人々の心をいやしている。農業の心というのは農産物を生産するだけではない。心穏やかな人々の社会や未来を託す子供達の情操を育むことや村の歴史を作ってきた老人達、そして家畜達とも一緒に生きていく心なのだ。殺伐とした現代には家族というものが失われつつあるが…木曽の馬の話は本当の温もりの家族のあり方を改めて思い出させる。
■写真は木曽の馬たち
%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%AC%EF%BC%94.jpg

2007年07月21日

白馬にあるブルートは命の実

7月、雨上がりのアルプスの山々はとても綺麗で山が近く感じる。山は既に夏の装い。先日、白馬村に行ってきた。あそこは別天地だ。緑も風も花の色も鮮やかでおとぎの国に行った気分だ。
さて白馬村の神城にある白馬山麓植物園に行った。園主は下川良雄さん。ここでは白馬ブルートという果物というか木の実を栽培している方だ。日本では北海道にハスカップという名前で栽培されているが寒冷地を好む野性味たっぷりの木の実だがまだ余り知られていない。ブルートといえばアニメのポパイとオリーブをいじめるブルートを思い出すがそれとは関係なくこの意味は「木の実」という意味だ。ブルーベリーにちょっと似た姿でその実はよく熟していると甘いがおおむねは酸味の強い甘さが特徴である。実の色は濃い紫で見ていて好ましい。和名は「黒実のウグイスかぐら」という。実はこの栄養はすごい。鉄分はブルーベリーと同じ位多く、ビタミンCはレモンと同じである。圧巻はカルシュームが多く牛乳の六割位含まれているという。果実でこんなに含まれているのは珍しい。それから梅と同じ位の殺菌力があり生でもジャムでも美味しくいただける。カルシュウム、リン、ビタミンA、ビタミンCなどはブルベリーの二倍以上含まれている。ここで頂いたアイスクリームは本当にうまかった。ブルートは七月が摘みとりの旬だ。
植物園の場所はオリンピックルートを白馬のジャンプ台に向かっていくと白馬山麓植物園の看板があるのですぐにわかる。行くときはしっかりスニーカーで足を固めていってほしい。花をみたり散策をしていると大小の蛇が時々出てくる。現に我々も二匹に出合った。これは自然豊かな証だが怪我をしてはつまらない。パワーあるブルートを食してみては如何か。
■これが白馬ブルート(ハスカップ)の実


%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E7%99%BD%E9%A6%AC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%92.jpg

2007年07月27日

「一道の清流あり一処藍をたたえて渕をなし…」 水の季節だ

学者の徳富蘆花の著作「自然と人生」の中に「夏の興」に子供の頃京都の「とがのう」のお寺に避暑をした時の話がある。蘆花は水の美しさを「一道の清流あり一処藍をたたえて渕をなし友と互いに水を溌し狂い回れば渕は雪を湧かして水は密かに緑玉塊を奪い去って浮き沈みして流れゆく…中略」とあり如何にもきれいな流れが想像できる。しかし現代では子ども達が戯れる清流なんてもう何処にもありゃしない…。さて水と言えば魚の住める水ということになる。我々は昔から飲み水を井戸で吸い上げていた。ところが近頃は地下水が汚染されてきてピンチなのだ。
私が住んでいる安曇野、ここの地下水は昔から素晴らしく八十年代には環境庁認定の日本の名水百選に指定されている。清涼な湧き水が今も懇々と湧き出している安曇野、日本アルプスから流れ出る源流だから味も良い。だが今は昔と違って安曇野のその地下水がそのまま飲めなくなっている。地下水にも大腸菌がいたり基準値を超えた化学汚染物質が検出されたり無意識のうちにいつの間にか汚染されていたのだ。町の飲料水には量が少ないとはいいながら消毒されて塩素のにおいが気になる。本当は自然の水をそのまま飲めるのが理想なのだが…。それにしても河川の汚染に生態系は大丈夫だろうか。
良いはずは無いな。例えば蛍がいなくなったということは餌になる「かわにな」が住めないということだから水質がやはり悪化しているのだ。そのほかにも居なくなった水生昆虫がかなりいる。ミズスマシもゲンゴロウもいなくなった。最近はみんな気をつけているが家庭の雑排水、農薬や化学肥料の流れ出したものもや娯楽施設から出る雑排水にしても人間のうごめくところ至るところに毒性の強い雑排水がでる。我々が過去にこれらを平気で垂れ流してきたつけは大きい。
水田に入る水を見ていると水の表面に油がうっすら乗っているのが分かる。お風呂の廃水や食事後の水が浄化不充分なのだ。下水道の完全整備が待たれるがこれには膨大な銭が掛かるときている。本当に大きなつけだ。
岐阜県の郡上八幡という所では水がきれいで人々も意識して大切にしている。川の水で野菜などを洗っているし子供達も平気で川で遊んでいる。それだけまだ水が綺麗だ。しかし最近この吉田川の上流にはスキー場やゴルフ場ができて水が汚れ始めた加えて近くを高速道路が通ってこれも心配の種だ。昔から郡上の天然鮎はみんな食べられた。養殖したものは内蔵が臭くていただけないが郡上の天然物は川藻だけで育っているから新鮮なのだ。今はどうかな。自然への畏敬の念を忘れて我がもの顔に振る舞った結果生じてきた水の問題はこれからとんでもない大騒ぎになると思いながら川原で遊んでいた子どもの頃を思い出している。
■おお、どこへ行った、今の大きかったよ
%E5%B7%9D%E9%81%8A%E3%81%B3%EF%BC%92.jpg

2007年07月28日

日本で一番高地の川上村のレタス

7月も終わりだな。ここのところ暑いなぁ。8月の頭に梅雨が明けると気象予報は入っているが天気は不安定だな。野菜物や米に影響が出る心配がある。気候は色々教えてくれる。これは食と農業への警告かもしれない。
さて久しぶりに川上村に行ってきた。野辺山の電波望遠鏡や日本一高い標高1375メートルのJRの踏切に立って世の中を見まわしてみたがさすがに涼しかった。
JA長野八ヶ岳の本所の脇に無人市場があってたまたま出荷している近所のお母さん達とお話をした。「販売した野菜の量とお金が会わないのですよ。…そう、泥ボーがいっぱいいるのよね…」。ここ20年の間に日本人は変わったとこのおばちゃんは嘆いていた。100円のみずみずしいキャベツを一円だけ入れて平気で持って行く奴がいる…ひどいものだね。いつから日本人はこんなになってしまつたのかね。その様な奴は子供にどんな顔をしてしつけしているか顔を見たいと思ったよ。
42名のお母さん達が大切に育てた真心野菜がかわいそうだった。お金を払って頂く、これはみんなの常識だ。
さて川上村は初めて行く人はきっと感動すると思うけど北海道の美瑛を思わせる様な景色のいい所だ。農家の規模も大きく5~10町歩位は平均耕作している。大きな農家ばかりだ。川上村のレタスは戦後いち早く生産に取り組み品質も生産量もこの季節日本一だ。何と言ってもレタスが甘いのが嬉しい。よく出る話だがレタスが苦いのは化学肥料のくれすぎだ。この日話を聞いた「新海はじめ」さんもベテランだが農家は気温によって使用するマルチや生産する品種の選定をしっかりするそうだ。そして秋以降は土作りをしっかりする。新海さんは気候に左右されるがやはり農業が面白いと言っていた。そしてその話の通りこの村々は後継者がしっかりとそろっていて活気のある村だと思った。
レタス畑を見ていて面白かったのは畑の至る所に投光器がおいてある。俺はまたコンサートでもやった後かな…なんて思っていたら朝方の二時頃から村中で収穫が始まるという。だからこの時期川上村は東京の六本木みたいになっているんだ。みずみずしい物をそのまま家庭までというこのこだわりを村中持っているから本当にすごい。
レタスは「乳草・ちしゃ」などといって奈良時代にはもう食べられていたという記録もある。当時は「かきちしゃ」と言って今の様な玉レタスではなかった様だ。西洋では二千五百年も前にペルシャの王様の食卓にあったという。貧血、冷え性の改善・老化の防止・鎮静、睡眠効果・カリユウムは体内の塩分の調整をしてくれる。日本には昭和35年頃から食の洋風化と重なって多く食べられる様になった。
■レタスの畑は広くて美しい。
DSCF0105%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%82%B9%EF%BC%94.JPG

About ぐるり故郷歌巡り

ブログ「堀 六平のやませみ便り」のカテゴリ「ぐるり故郷歌巡り」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のカテゴリは食べものの一考察です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。