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七月の木曽の馬市別れ雨

ひとは私に腹が出てきて随分格好が悪いという。返す言葉もない、当たってるな。おまけにここのところ一週間ばかり夏風邪と血圧不安定で目は回るし体の節々が痛くひどい目にあった。メタボの同志よ、お互いに気を付けよう。
さて戦前(半世紀前)までは毎年7月には木曽福島に馬市が立ったという。私達には何か時代劇の様な気もするがこれは今から200年(江戸中期から後期)も以前から既に木曽福島で開かれていたのだ。確かに私のように木曽馬は胴長で短足だが山の上まで耕せる力の持ち主でたくましく優しい性質の馬だった。この優しい馬の中から当時の木曽代官山村氏が雌の良い馬を召し上げるために「毛ずけ改め」ということをした。早い話が品質検査をして合格すると有無も言わさずにそのまま召し上げてしまったのだ。一方代官の目から逃れた馬は自由に市にかかり売られていくのだがこの時に馬のたてがみを切って売買した。これが馬市の始めからのスタイルで、後世にたてがみを切った馬の人形が土産に売られる様になったがこの時の名残だと言われている。
さて当時の馬市にはどの位の数の馬が集まったか。記録によると一番多い時は2000頭を超えていた。家で飼われていた馬を考え合わせると木曽谷には3000頭は飼われていたと思われる。市場では木曽駒は馬の全国三大和種の一つにあげられている位人気がありよくうれた。記録によると木曽の人々は馬を家族同様にして飼っていたからお金の為とは言いながら売られた馬との別れがつらくて村の堺まで泣きながらついて行って別れを惜しんだという。これを「七月の梅雨は木曽馬市の別れ雨」といわれて後まで語り継がれてきた。当時の木曽馬は農業にも運送にも子供達の情操にも無くてはならぬ家族の様な存在で馬達もまた人々の心を知っていて一生懸命に尽くしてくれた。木曽谷の人々と馬は切っても切り離せなかったのだ。
歴史を見ると西暦530年代には既に飼育されていた記録がある。1180年に源氏の若武者木曽義仲が27才の挙兵の時にも、またその3年後の近江の粟津ケ原での最後の時まで側に何時もいたのも木曽馬だった。
ところで以前から開田村には馬名主(馬地主)といわれる豪農がいて沢山の馬を支配し全国に販売していた。多い時はこれも記録によると村の予算に匹敵する位の商いがあったと記録されている。時代は移り太平洋戦争の頃には足の長い外国の馬との掛け合わせが盛んに行われて純粋な木曽馬がほとんどいなくなった。この時に村の心ある人々が軍部に隠れて終戦になるまで何頭かを隠して育ててきた話を知る人は少ない。そしてこの人々のお陰で今日まで純粋な木曽馬を保存できたのだ。
現在開田村には30数頭の木曽馬の子孫が牧場で育てられていて来る人々の心をいやしている。農業の心というのは農産物を生産するだけではない。心穏やかな人々の社会や未来を託す子供達の情操を育むことや村の歴史を作ってきた老人達、そして家畜達とも一緒に生きていく心なのだ。殺伐とした現代には家族というものが失われつつあるが…木曽の馬の話は本当の温もりの家族のあり方を改めて思い出させる。
■写真は木曽の馬たち
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2007年07月17日 08:33に投稿されたエントリーのページです。

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